『YouTube公開』
「眠りに入りやすくなる呼吸法」とは?
【朗読】眠れない夜に聞きたい雑学【聞くトリビア】
『戦時中に放送できなかった唱歌とは?』
『車のドアノブに○○○があったら要注意!?』
眠れない夜のおともに聞きたい、面白雑学動画! 驚きの雑学の数々を、フリーアナウンサー大橋俊夫氏の朗読とともにお楽しみください。
こちらは動画の内容の書き起こし記事です。
音声と一緒にお楽しみください。
小学生は、学生ではない「学生」とは具体的に誰を指すのでしょうか。学校に通って学問を学んでいる人は「学生」に含まれるのではないかと考える人がほとんどでしょう。しかし、学校教育法や学習指導要領では、小学生、中学生、高校生は「学生」ではないとされています。 学校教育法などによると、「学生」は、短期大学や専門職大学を含む大学、および高等専門学校で学ぶ人と定義されています。では、小中高校生はどう定義されているかというと、中学生や高校生、専門学校生は「生徒」、小学生は「児童」とされています。 ただ、あくまでこの定義は法律などによるもので、日常的には学校で学んでいれば「学生」と呼ばれます。実際、鉄道などの「学生割引」も中高生が利用できますし、中高生の多くは「学生服」を着用して登校しています。『広辞苑』でも、「学生」とは「学業を修める者」と記載されていますし、一般にはそこまで意識されていないことがわかります。 |
ネズミが電気ケーブルをかじるのは、歯を削るためネズミが家の電気ケーブルをかじった部分から火花が出て火事になった、というできごとがかつてありました。しかし、よくよく考えると、なんでネズミは食べることのできないケーブルをかじるのか不思議だと思わないでしょうか。実は、ネズミはケーブルをかじることで、自身の前歯を削っているのです。 ネズミは生まれてから死ぬまでずっと前歯が伸び続けます。そのまま伸び続けていると、歯の先で皮膚を傷つけるおそれがあります。また、前歯の噛み合わせも悪くなり、硬いものを噛もうとしてもうまく噛めず、物を食べることもできなくなります。そこで手近なケーブルをかじることで、前歯を削っているというのです。ちなみに、ネズミがかじるのはケーブルだけではありません。石鹸や家具などそれなりに硬いものであればなんでもかじるようです。 最近はケーブル本体に、唐辛子の辛みの成分で、ネズミが嫌うカプサイシンを含んだものもありますし、ケーブルを保護するためのチューブも販売されています。もし、ネズミによる火災が不安であれば、それらを利用するのも良いかもしれません。 |
もともと輪ゴムは、自転車のチューブから作られた日常生活で物を束ねるときに使う輪ゴム。現在でこそカラフルなものもありますが、一般的にはアメ色のものを連想する人も多いでしょう。このアメ色の輪ゴムが誕生したのは1917年のことで、それ以前は黒い輪ゴムが一般的でした。というのも、かつては自転車のタイヤのチューブを利用して製造していたからです。 日本初の輪ゴムは、現在も輪ゴムを生産している企業・共和の創業者・西島廣蔵(ひろぞう)が、銀行関係者から「たくさんの札束を取りまとめるものが欲しい」という依頼を受けたことがきっかけで生まれたとされています。そして、このときに利用したのが自転車のチューブでした。自転車のタイヤチューブを輪切りにすることで、輪ゴムとして売り出したのです。 しかし、タイヤチューブは頑丈に作られているため、硬くて黒く、大変使いにくいものでした。お客さんからも「もっと使いやすい輪ゴムがほしい。黒じゃなくてきれいで透明感のある輪ゴムが欲しい」という要望が寄せられ、西島は新たな開発をスタート。そして1917年に、現在よく見られるアメ色の輪ゴムが誕生しました。 この輪ゴムは、当初「ゴムバンド」という名前で販売されましたが、1951年に「オーバンド」と名称変更し、現在も販売を続けています。 |
古代ローマでは、主人と奴隷の立場が逆転する祭りがあった古代ローマでは、毎年「サトゥルナリア」というお祭りが開催されていました。この祭りはもともとポエニ戦争で疲弊していた兵士を励まし、奮い立たせるために行われたものでしたが、なんと、この祭りの期間中、主人と奴隷の立場が一時的に逆転するという風習がありました。 この間、奴隷は自由に振る舞うことが許され、思いのままに楽しむことができました。そしていつもは主人に食事の用意をする立場でしたが、この時だけは逆に主人から食事を振る舞われました。もちろん、祭りの宴会に参加でき、身分に関係なく大いに盛り上がることができたそうです。こうして奴隷にストレスを発散させることで、市民の社会的な絆を強め、連帯感を高めていたというわけです。 また、この祭りではそれぞの家で緑の枝や花を使った装飾が施されたり、家族や友人たちの間でプレゼント交換が行われたりしました。このような祝い方から、サトゥルナリアがクリスマスのルーツとなったとする説もあります。 |
ディズニーランドは、富士山麓にできるかもしれなかった千葉県浦安にある東京ディズニーランド。1983年に開園し、40年以上経った現在でも多くのゲストが来園しています。そんなディズニーランド、かつて富士山のふもとに開園するという話が持ち上がったことがありました。 アメリカのディズニー社が日本にディズニーランドを開園する話が立ち上がった際、現在のディズニーランドを運営する企業・オリエンタルランドが千葉・浦安に誘致したのに対し、他の企業もさまざまな場所に誘致しており、最終的に浦安と富士山麓が最終候補地として残りました。しかし、ディズニー側としては、富士山麓にディズニーランドができた場合、園内のどこに行っても富士山が見えてしまい、世界観の演出に支障が出るとして前向きではありませんでした。さらにオリエンタルランドによる熱心なプレゼンが功を奏し、浦安にディズニーランドが建設されることになったのです。 もし富士山麓にディズニーランドがオープンしていたら、相当違った雰囲気のテーマパークになっていたかもしれません。 |
飛行機のパイロットが帽子をかぶるのは、飛行機を点検するため飛行機のパイロットはよく帽子をかぶっているイメージがあります。飛行機という屋内空間で仕事をするにも関わらず、なぜ帽子をかぶっているのか。それは、パイロットがフライト前に機体の点検を行うからです。 パイロットは操縦する飛行機に異常がないかを目で見て確認します。もし少しでも異常があれば、自身をはじめ多くの人の命に関わるため、かなり慎重に確認しなければなりません。通常、このチェックは下から機体を見上げる形で点検しますが、その際にエンジンや翼からオイルや油圧液がポタポタと落ちてきて、万が一目に入ってしまうと大変なことになります。最悪の場合、フライト直前にパイロットが交代しなければならないこともあります。そのため、帽子をかぶってそのような事態を防いでいるのです。 また、車輪周りのチェックのときに突起物に頭をぶつけてケガをする可能性もあるため、それを防ぐという目的もあります。 |
秋田県の県南部では、何でも砂糖をかける人が多いどんな食べ物にもマヨネーズをかけるほどのマヨネーズ好きがいますが、秋田県の南部の地域ではそれと同様に、さまざまな食べ物に砂糖をかける砂糖好きの人が数多く存在します。 どのような食べ物に砂糖をかけるかというと、トマト、グレープフルーツといった砂糖をかけても違和感のないものから、納豆や赤飯といった「こんなものにまで?」と思えるような食べ物にまで及びます。納豆は砂糖を入れることで甘みと粘り気が強くなって美味しくなるそうで、赤飯にいたっては「甘くない赤飯は赤飯とは呼べない」と言う人もいるほど、砂糖が入っているのが当たり前の文化となっています。他にも、卵焼きや茶碗蒸し、ポテトサラダ、さらには漬物にまで砂糖を使う人もいます。 なぜ、こんなにも砂糖を使う料理を好むのかというと、一説には、かつてこの地方では砂糖が貴重な食材だったため、冠婚葬祭やハレの日などに砂糖をふんだんに使った料理でもてなす文化があり、その名残が現在も残っているのではないかと言われています。 |
フレミングは、鼻水を垂らしたことで新たな酵素を発見したペニシリンの発見者として知られるフレミング。彼は風邪を引きながらも研究をしていたところ、その風邪がきっかけで発見につながったというエピソードがあります。 1921年、フレミングはある細菌の研究をしていました。しかし、風邪を引いていたフレミングは、その細菌が入った容器の中に誤って鼻水を垂らしてしまいます。普通なら大問題になりかねない出来事ですが、その容器の中を調べてみたところ、驚くべきことに細菌が死滅したのです。フレミングはこれをきっかけに、同僚などから鼻水を採取し、細菌に垂らす実験を何度も繰り返した結果、鼻水の中にある種の細菌を死滅させる物質が含まれていることを発見しました。 フレミングは後にこの物質に「リゾチーム」と名付け、論文で発表しました。この「リゾチーム」は現在では風邪薬などにも配合されています。もし、フレミングが風邪を引いてなければ「リゾチーム」は世に出ていなかったかもしれません。 |
バレーボールほどの大きさの柑橘類がある熊本県八代地方では「晩白柚(ばんぺいゆ)」という柑橘類が栽培されています。この晩白柚を初めて見た人は、かなり驚くことでしょう。というのも、一般的なサイズで直径20cmもあり、バレーボールほどの大きさがあるからです。 晩白柚はマレー半島原産の果物で、柑橘類の中では最大の大きさを誇ります。大正時代に台湾を経由して日本にやってきて、水質や土壌、気候などが適していた八代地方で多く栽培されるようになりました。 驚くべきことに巨大ながらも木に実る形で栽培されています。重さは通常で2kgほどあるため、途中で重くて枝が折れたりしないか心配になりますが、木自体がしなやかであるため、折れることはないそうです。 これだけ大きいと味もあまり美味しくないかと思いきや、甘みもほどよく、酸味もそれほど強くないため、上品な味わいで非常に美味しいそうです。また、分厚い皮や身を包む白いワタは、砂糖漬けにして食べられています。もし熊本に行く機会があれば、食べてみてはいかがでしょうか。 |
リンカーンの「人民の、人民による、人民のための政治」には元ネタがあった1863年、アメリカ第16代大統領リンカーンはペンシルベニア州ゲティスバーグにて、有名な演説を行いました。その中の「人民の、人民による、人民のための政治」というフレーズは、知らない人はいないのではないかと思われるほど多くの人に浸透しています。そんなこのフレーズには、実は元になったことばが存在します。 そのことばとは、イギリスの宗教改革者ウィクリフが翻訳した『聖書』の序文にある一文で、「聖書は、人民の、人民による、人民のための政治を可能にならしめる」とあります。リンカーンはこの文章を引用する形で、あの有名なフレーズを生み出したと言われています。 そもそもリンカーンは『聖書』に非常に強い思い入れを持っており、幼い頃から母親に読み聞かせてもらったのをきっかけに常に触れるようになり、人生の中で『聖書』は欠かせない存在となっていたという背景があったのです。 |
首をポキポキ鳴らすのは危険肩こりがつらいとき、つい首をポキポキと鳴らしてしまう人は、その習慣を今すぐやめましょう。この行為は、やりすぎると命に関わる危険性があります。 このポキポキという音は、骨が鳴っているわけではなく、関節を包む関節液にたまった気泡が弾ける音です。関節液は関節を滑らかに動かす潤滑油のような役割を持ち、気泡が弾けると液の容積が増えるため、首の動きが一時的によくなり、楽になったように感じてしまいます。しかし、繰り返し鳴らして過度に刺激を与え続けると、骨にある椎骨動脈という血管に傷がつき、血栓ができる可能性があります。血栓が血管に詰まると、さまざまな病気を引き起こす恐れがあります。特に脳の血管の場合だと脳卒中になり、そのまま命を落としてしまいかねません。 脳卒中に至らなくても、骨や筋肉への刺激が原因で慢性的な関節炎や肩こりが起こりやすくなったり、手のしびれやめまいなど、首や肩とは一見関係ない部位にまで影響が及ぶこともあります。 肩こりがつらいときは、首周りの筋肉を温めてほぐすと効果があると言われています。それでも改善しない場合は、整骨院などの医療機関で診察を受けるのが良いでしょう。 |
生肉を手でこねた後に砂糖を手につけると、きれいになるハンバーグを作った後、手にぬめりが残ってなかなか取れないことがあります。このぬめりは、いくら石鹸や洗剤で洗っても落ちにくいため、苦労したことのある人も多いでしょう。しかし、ある簡単な方法を使えば、このぬめりを取ることができます。 その方法とは、砂糖を手のひらに広げてこすり、洗い流すことです。その後に石鹸でもう一度手を洗えば、簡単にぬめりを取ることができます。手のひらだけでなく、指の間や爪の周辺にも対応できるので、この方法を知っておけば、もうぬめりに悩むことはありません。 なぜこんなに簡単に取れるかというと、砂糖の粒子は非常に細かくて固いため、研磨剤のように働いて肉の脂などをこすり落としてくれるからです。さらに、砂糖には脂分を吸い取ってくれる性質もあるため、手のひらに広げるうちに脂が吸い取られ、洗い流しやすくなります。また、砂糖は肌に優しく、何度使っても手を傷めることがありません。 今後、ハンバーグを作る際には、材料と一緒に砂糖も準備しておくと良いでしょう。 |
10万ドル紙幣という超高額紙幣があった現在、アメリカで使用されている紙幣には1ドル、2ドル、5ドル、10ドル、20ドル、50ドル、100ドルの7種類があります。これだけの種類があれば、それほど不便なこともないため、さらに高額な紙幣が新たに発行されることはないと考えられますが、過去にはそんな高額な紙幣が、しかもとんでもない額面のものが発行されたことがあります。 それは1934年に発行された「10万ドル紙幣」です。今のレートだと、日本円でおよそ1500万円相当になります。肖像には第28代大統領のウッドロウ・ウィルソンが描かれていました。アメリカ財務省はこの紙幣を4万2000枚印刷し、国内に流通させました。ただ、一般市民が手にして使うことができたかというと、そうではなく、主に連邦準備銀行とアメリカ政府との間の決済で使用されていました。 この他にも、500ドル、1000ドル、5000ドル、10000ドルの高額紙幣が発行されたことがあります。1969年までこれらは使用されていましたが、その後、銀行に回収され、ほとんどが廃棄処分となりました。現在、10万ドル札はアメリカにわずか7枚しか残っておらず、それらは国立アメリカ歴史博物館などの施設に保管されています。 |
ウソの話を競い合う大会がある青森県の津軽地方南端に位置する大鰐町(おおわにまち)で、毎年6月頃に「万国ホラ吹き大会」というたいへんユニークなイベントが開催されます。 このイベントでは、全国から集まったホラ吹き自慢が、1人あたり5分間でどれだけ観客を沸かせるユーモアあふれるウソ話を披露できるかを競い合います。もっとも優れたウソ話を聞かせてくれた人には、最高賞として「仙人」の称号が与えられます。全国から集まったホラ吹き自慢がこの「仙人」の座を争い、話術を駆使して会場を沸かせようと奮闘します。 大鰐町では「石の塔」と呼ばれる巨大な石があり、津軽の人々の間では、「石の塔を見ないうちは大きなことは言えない」ということわざが言い伝えられています。このことわざをもとに始まったのが、このホラ吹き大会です。参加者は大会参加前に石の塔へ参拝し、「大法螺吹き免許証」を交付してもらった後に会場に入り、観客の目の前でホラ話を競い合います。 ちなみに、会場に来た観客には大鰐名物のもやし汁が振る舞われるため、これ目当てに訪れる人もいるようです。 |
氷を電子レンジで温めても、溶けない料理などを温めるときに使う電子レンジですが、氷を早く溶かしたいと思って電子レンジに入れても、なかなか溶けません。なぜ溶けないのか、これは電子レンジがどのようにして物を温めるかという仕組みが大きく関わっています。 電子レンジは中でマイクロ波という電波を発生させますが、このマイクロ波は食材の中に含まれている水の分子を1秒間におよそ24億5千万回振動させることができます。その振動によって、水分子には大きな摩擦熱が発生します。この熱によって食材が温められるわけです。 しかし、氷の場合、中の水の分子は隣の分子としっかりつながっていて、振動させようと思ってもなかなか動かすことができません。そのため、摩擦熱もほとんど発生せず、氷が溶けるということもありません。 ただ、ある方法を使えば電子レンジで氷を溶かすことができます。それは、氷を濡らしてから電子レンジに入れることです。そうすれば、周りの水が熱を発生させるため、その熱によって氷も溶けるというわけです。 |
ロンドンで、ビールによる洪水が起こったことがあるイギリス・ロンドンのセントジャイルズという地区には、1764年に開設された「ホース・シュー醸造所」という名のビール工場がありました。そこでは1万8000個の巨大なビール樽を有し、およそ120万リットルものビールを醸造していました。まさにロンドンを代表するビールの生産地だったというわけです。 そんなセントジャイルズですが、1814年10月17日、非常に恐ろしい事故が起こります。午後4時30分、ビール樽を周囲から固定している鉄のリング、いわゆる「たが」と呼ばれる部分が外れて落ちているのが発見されました。元に戻そうとしましたが、いかんせん樽自体が巨大なため、「たが」もまた大きく、1つで300kg以上の重量もあり、すぐにどうにもできませんでした。そして、その1時間後、樽が耐えきれず、巨大な爆発音を鳴り響かせて崩壊し、これに誘発される形で醸造所内の他のビール樽も次々に破壊されていきます。 そして、樽からビールが大量に解き放され、街中を飲み込んでいきます。その結果、2件の家屋が全壊し、8名が亡くなるなど、街に大きな被害を与えることとなりました。また、事故から数ヶ月の間、街からはビールの匂いが染み付いて取れなかったそうです。 |
八丁味噌の「八丁」とは、お城からの距離味噌カツ、味噌煮込みうどんなど、名古屋の名物料理の多くは、中京地方でよく食べられている「八丁味噌」という豆味噌が使われています。 この「八丁味噌」の「丁」とは距離の単位です。1丁はおよそ109m、すなわち8丁とは870mほどの長さを意味します。なぜこのような距離の単位が味噌の名前についたのかというと、八丁味噌が最初に作られた場所が、岡崎藩の拠点となった城・岡崎城から西へおよそ八丁ほど離れた村だったからです。村の名前はその名も「八丁村」。岡崎城からの距離が、そのまま村の名前になっています。 江戸時代、この村には東海道が通り、また近くに船が多く行き来する矢作川(やはぎがわ)が流れていたため、交通の要所であり、全国からさまざまな食材が集まってきました。しかし、この地域は非常に気温が高く、また川が近くにあったことから湿度も高かったため、食べ物が腐りやすいという環境にありました。そこで、集まった食材を使って、そうした環境に耐えられる保存性の高い食材は作れないか、ということで生み出されたのが八丁味噌でした。 八丁味噌は東海道を行き来する人によってその名前が広まり、中京地方はもちろん、江戸でもその名を轟かせ、次第に多くの人に愛される食材となっていきました。 |
ドアノブにコインが挟まっている車は、車上荒らしに狙われている車を持っている人は、駐車場などで停車した際、必ず助手席や後部座席のドアノブを確認してください。もしそこにコインが挟まっていたら、その車は犯罪者に狙われている可能性があります。 実は、ドアノブにコインが挟まれていると、運転席からすべてのドアを一括で施錠する「セントラルロックシステム」が正常に作動しなくなります。そのまま気づかずに運転してしまうと、犯人は車を尾行し、再び停車して運転手がその場を離れたタイミングで、ロックされていないドアから車内に侵入し、金品や車そのものを盗んでいきます。 この手口は、車種によっては通用しないものもありますが、それでもドアノブにコインが挟まれているということは、明らかに狙われている証拠であるため、細心の注意が必要です。 ここ数年、自動車の盗難や車上荒らしの件数は増加傾向にあります。車に乗るときは何かしらの違和感がないか、しっかり確認しましょう。また、車内には貴重品をはじめ、色々と物を置きっぱなしにしないことも重要です。車内に物があることが見えるだけで、犯人に狙われやすくなってしまいます。 |
スペインに、マジンガーZの像がある日本のマンガやアニメが海外でも人気というニュースはたまに耳にします。ただ、人気とはいっても、一部の熱狂的なファンに限られるのではないかと思う人もいるかもしれません。しかし、スペインのある村では、日本のアニメ『マジンガーZ』の巨大な像が建てられており、村ぐるみで親しまれています。 この像は、スペイン西部にある人口1000人ほどのカブラ・デル・カンプ村の公園に建てられているもので、建設に関する正確な資料が残っていないため詳細は不明ですが、1980年代にスペインで『マジンガーZ』がテレビ放送されて人気を博した時期にあわせて作られたとされています。なぜ『マジンガーZ』が選ばれたかは定かではありませんが、当時この地域の開発を進めていた業者が、地域のイメージアップを目的に設置したと考えられています。 像の高さは10mもあり、かつては内部に入って頭の部分から周囲を見渡すことができましたが、現在は安全上の理由から立ち入りは禁止されています。それでも、一目見ようと訪れる人は多く、毎年8、9月にはファンの集会も開催されています。村の人たちはもちろん、多くのアニメファンに愛されている像なのです。 |
韓国料理が辛いのは、日本が原因韓国料理に欠かせない唐辛子。なぜそれほど唐辛子が多く使われているのかというと、韓国は冬の寒さが非常に厳しく、12月の平均気温が氷点下になることもあります。このような寒さを乗り越えるために、唐辛子を使った辛い料理を食べて体を温めようとしてきたのです。そんな唐辛子ですが、最初に韓国に伝えたのは、豊臣秀吉率いる日本の兵士たちだったという説があります。つまり、韓国料理が辛くなった背景には、日本の影響があったかもしれないというわけです。 1592年、豊臣秀吉は中国・明の征服を目指し、まずは朝鮮半島に出兵しました。その際、寒さの厳しい朝鮮半島で兵士たちの足元を冷えから守るため、秀吉は靴の中に唐辛子を入れるように命じたとされています。このときの唐辛子が、朝鮮半島に伝わった最初の唐辛子だといわれています。また別の説では、出兵に同行した加藤清正が朝鮮軍への目潰しとして唐辛子を使い、それが広まったともいわれています。いずれにせよ、この朝鮮出兵がきっかけで唐辛子が伝わったという点では、両方の説とも一致しています。 もし、秀吉による朝鮮出兵がなければ、現在の韓国料理の姿は違うものになっていたかもしれません。 |
古代ギリシャ時代に、樽の中で生活した哲学者がいた紀元前5世紀頃、古代ギリシャに非常に風変わりな生活を送っていた哲学者がいました。その名はディオゲネス。ギリシャ哲学の一派・キュニコス派を代表する人物です。 彼はもともと黒海沿岸のシノベという町に生まれ育ちましたが、お金の偽造に関与した罪で町を追われ、アテネに移り住みました。アテネ移住後は、周囲の慣習にとらわれた生き方を嫌い、わざと貧乏な生活を送っていました。衣服にも一切こだわらず、食事なども物乞いによってなんとか日々をしのいでいたそうです。当然ながら家も持たず、町に置かれていた樽の中で暮らしていたと伝えられています。 そんなディオゲネスを、アレキサンダー大王はいたく気に入ったそうです。この2人が出会った際、アレキサンダー大王が「何か私にできることはないか」とたずねたところ、ディオゲネスは「あなたが前に立つと日陰になるので、そこをどいてください。それ以外は何もいりません」と答えた逸話が残っています。 このようなエピソードから、ディオゲネスはギリシャ哲学界の奇人として広く知られる存在となりました。 |
「女心と秋の空」と同じように、「男心と秋の空」ということわざもある女性の気持ちは、秋の空のように変わりやすいという意味のことわざ、「女心と秋の空」。実際には、そう簡単に気持ちが変わらない女性も多いでしょうし、逆に男のほうが心変わりしやすいので、男心でないのはおかしいと思う人もいるかもしれません。実は「男心と秋の空」ということわざは実際に存在し、しかも「女心と秋の空」よりも古くから使われていました。 「男心と秋の空」ということわざが生まれたのは、室町時代や江戸時代頃とされています。当時は既婚女性の浮気は重罪で、場合によっては死刑になることもありました。一方、既婚男性の浮気は許されていました。そのため、男性のほうが浮気することが多く、心変わりが激しかったのです。そうした男性の様子をたとえて、「男心と秋の空」と言われるようになりました。 対して、「女心と秋の空」が生まれたのは大正時代のことです。大正デモクラシーにより女性の地位が向上したことで恋愛の価値観が変わり、女性が自由に恋愛しやすくなったことから、「女心と秋の空」という表現が使われるようになりました。 |
土星を水の中に入れると、浮かぶ太陽系には地球を含み、8つの惑星があります。その中のひとつ、土星は木星に次いで2番目に大きく、直径は地球のおよそ9倍、体積はおよそ755倍にもなります。しかしこの土星は、水の中に入れるとプカプカと浮かぶほど密度が低いのです。 その平均密度は水のおよそ0.7倍、地球の平均密度が水のおよそ5.5倍であることを考えると、土星がいかに軽いかがわかります。なぜそれほど軽いのかというと、土星は水素やヘリウムといった軽いガスでできたガス惑星だからです。土星の中央部には、半径1万5000kmほどの岩石や鉄などからなる核がありますが、その外側に高圧で圧縮された水素の層がおよそ1万km、さらにその外側には分子状の水素とヘリウムが混ざった厚さ3万5000kmほどの層が存在します。これらのガスの層が土星の大部分を占めているため、密度が極めて低いのです。 ちなみに、太陽系でもっとも大きい惑星の木星も同様に大部分がガスで構成されていますが、平均密度は水のおよそ1.3倍とわずかに大きく、水には浮きません。 |
もともと、喪服は白かったお通夜やお葬式で着ていく喪服の色といえば、基本は黒で、他の色を見かけることはまずありません。しかし、かつては喪服といえば白が一般的だった時代もありました。 日本で喪服が登場したのは奈良時代だとされています。『日本書紀』によると、当時の日本のお葬式では白の喪服が着用されていたという記録が残っています。なぜ白い喪服が着られていたのかというと、亡くなった人が着る白装束と同じ色の衣服を身にまとうことで、遺族の悲しみを表現していたのです。また、白は神様の色と考えられていたため、死によるけがれを浄化する意味合いもありました。さらに、かつては白い布を染めるのが手間だったため、白い服のほうが一般庶民にも手に入りやすかったという事情もありました。 では、なぜ喪服が白から黒に変わったかというと、明治に入り欧米の文化が日本に流入したことが大きな要因です。欧米では黒の喪服が一般的であり、皇室などの葬儀に参列した欧米諸国の来賓たちは黒い喪服を着用していました。それに合わせる形で、日本の参列者も喪服を黒に統一することとなり、日本でも黒い喪服が広まっていったのでした。 |
東京タワーと通天閣を設計したのは、同じ人東京の東京タワーと大阪の通天閣。これらは東西を代表する観光スポットのタワーですが、この二つとも同じ人物が設計を手がけています。 その人物とは、内藤多仲(たちゅう)という明治から昭和にかけて活躍した建築家で、日本建築学会の会長や震災予防協会理事長など、さまざまな役職も歴任した、日本建築界を代表する建築家のひとりです。 彼は、地震の多い日本でいかにして地震に耐えうる高層建築を実現できるかをテーマに長年わたって研究を重ね、耐震構造の理論を確立したことでも知られています。実際、彼が手がけた建物は関東大震災でも被害を受けなかったことで、高い評価を得ました。 その業績により、後にさまざまな塔の設計に携わるようになります。1956年には大阪の通天閣、1958年には東京タワーの設計を担当し、さらには名古屋テレビ塔、さっぽろテレビ塔、博多ポートタワー、別府タワーと、合計6基のタワーに関わりました。そんな内藤はこれらの功績から「塔博士」の異名で呼ばれ、現在も語り継がれています。 |
高速道路のサービスエリアのトイレには、あえて和式便器が設置されているここ最近作られた公共施設のトイレで和式トイレを見かけることは、ほとんどなくなりました。用を足す時の体勢が厳しいのと、使い方がわからない外国人観光客が増えてきたことから、不親切とされるのが主な理由です。しかし、高速道路のパーキングエリアやサービスエリアでは、全便器のうちのおよそ1割、和式トイレが残されています。 なぜ、使いづらい和式トイレが今も設置されているのかというと、これはお客さんの要望によるものです。パーキングエリアやサービスエリアのトイレは老若男女、さまざまな人が利用します。中には他の人が使った便座に触れたくない人もいます。また、便座を介した感染症のリスクを懸念する声もあります。そんな事情もあり、和式便器を望む人も一定数存在し、その要望に応える形であえて1割ほど、和式トイレを設置しているのです。 また、同じ理由で公立小中学校でも和式トイレが残されています。こちらも「和式トイレを残してほしい」という声が一定数あるため、完全に撤去されることがないようです。 |
織田信長は、クリスマスを理由に戦を休戦したことがあるキリスト教の一大イベント、クリスマス。日本で祝われるようになったのは、鎖国が解けた明治時代以降だと思っている人も多いでしょう。しかし、実は戦国時代にはすでにクリスマスを祝っていたという記録が残っており、なんと織田信長がクリスマスを理由に戦を休戦させたこともあります。 これは1568年のクリスマスイブのことです。当時、織田信長と松永久秀の両軍が大坂を舞台に戦っていました。当時、すでにイエズス会がキリスト教を布教していて、両軍の兵士の中にはキリスト教信者もいました。そんな彼らがクリスマスイブにもかかわらず、戦い合って命を落とすのはおかしいということで、あるポルトガルの宣教師がクリスマスに休戦することを申し出ました。信長・久秀の両軍はこの願いを受け入れ、クリスマスの間だけ一時休戦することになりました。 ただ休戦するだけでなく、両軍の兵士、合わせて70人ほどの兵士が一緒に礼拝を行い、クリスマスの日を楽しんだとされています。 しかし、クリスマスが終わると彼らは敵味方に分かれて戦闘が再開されました。残念ながら、当時のクリスマスには戦を止めるだけの力はなかったようです。 |
ビルで見かける「定礎」と書かれているプレートの中には、ビルの図面などが入っているビルの周りを歩いていると「定礎」と書かれたプレートが目に入ることがあります。このプレート、いったい何の目的で設けられているのでしょうか。実はこの中には、工事に関するさまざまなものが埋められています。 この定礎のプレートの内側には、ちょっとした空洞があり、そこに「定礎箱」という箱が置かれています。その中身は現場によって異なりますが、建築の際の図面や工事関係者の名簿、建設当時の新聞が一般的で、また資料として建築当時に使われていた硬貨が収められることもあります。 ただし、このプレートは、その建物が使用されている限り開けられることはありません。中身を確認できるのは建物が取り壊されるときだけです。定礎のプレートが設置されるようなビルであれば、100年以上使用されることも珍しくありません。この定礎箱は、建物を解体する人々に建築当時の記録を伝える、いわばタイムカプセルのような役割を果たしています。 ちなみに、このプレートの中に資料が収められるのは、ビルの完成直前です。その際には「定礎式」という式典が行われ、ビルの安全を祈願しつつ、定礎プレートが設置されます。 |
長良川の鵜飼の鵜を操る人は、国家公務員岐阜県・長良川の夏の風物詩となっている「鵜飼」。鵜という鳥を使ってアユを捕らえる伝統的な漁で、1300年以上前から行われている歴史ある文化です。この漁では「鵜匠」と呼ばれる人が鵜を操りますが、実はこの鵜匠は、国に雇用されている国家公務員なのです。 鵜匠の正式な名称は「宮内庁式部職鵜匠」といい、その名のとおり、宮内庁に非常勤職員として所属しています。全国には長良川以外にも鵜飼をしている場所はありますが、国家公務員として活動しているのは、長良川の鵜匠だけです。 なぜ長良川の鵜匠が公務員という立場になったかというと、それは明治時代に一度、鵜飼が消滅の危機に瀕したことがきっかけです。このような伝統的な漁法を絶やしてはならないという思いから、当時の岐阜県知事が国に保護を要請し、それにより宮内庁の管轄となったことで、鵜匠は公務員として所属することになりました。 では、給料はどのようになっているかというと、月給はわずか8000円程度しかもらえませんが、鵜の訓練などに使用するための「報償費」として、経費も含め年間およそ2900万円が岐阜市から支払われています。 |
パスタの茹で汁は、除草剤になる家でパスタを茹でた後の茹で汁は、そのまま捨てる人がほとんどかもしれません。しかし、実はパスタの茹で汁はさまざまなことに使える非常に便利な資源にもなり得ます。そのまま捨てるのはもったいないので、ぜひ残して活用してみましょう。 具体的にどのように便利かというと、たとえば家に庭がある人であれば、茹で汁を庭にまくことで雑草対策になります。これは茹で汁に含まれている塩分が雑草の成長を抑制する効果を持っているからです。さらに、茹で汁が熱い状態であれば、その効果は一層高まります。加えて、化学物質を含まないため、環境に優しい利点もあります。 また、洗濯に利用すれば、衣類に柔軟効果を与えることができます。これは茹で汁に含まれるでんぷんに、洗濯物を柔らかく仕上げる効果があるからです。洗濯時に水の中へ少量の茹で汁を加えるだけで、簡単にその効果が得られます。 さらには、台所やシンク、排水溝の掃除にも役立ちます。茹で汁に含まれる「サポニン」という成分は油汚れに効き、「ミネラル」には水垢を落とす効果があります。 このように、パスタの茹で汁は非常に便利で、さまざまな場面で再利用できます。捨てずに活用することで、エコで賢い暮らしが実現できるかもしれません。 |
唱歌『たき火』は戦時中、放送禁止となっていた「垣根の垣根の曲がり角」と始まる唱歌『たき火』。誰もが小学校の授業などで聞いたり、歌ったりしたことがあるのではないでしょうか。そんな『たき火』ですが、第二次世界大戦中にラジオで放送禁止となった時期がありました。特に反戦的な内容でもないのに、なぜ放送禁止となったのでしょうか。 それは軍部からの要請によるものでした。というのも、たき火をすることで空から煙がはっきりと見え、空襲のターゲットになるおそれがあったからです。また当時はさまざまなものが不足していた時代であり、落ち葉もお風呂を沸かすための貴重な燃料になると考えられていたため、たき火に使うにはもったいないと考えられていたという理由もあります。『たき火』の歌が広まることで、全国各地でたき火が行われるようになってしまうのを、軍部は懸念していたというわけです。 そして戦争が終わり、再びラジオで『たき火』が流されたのは、終戦から4年後の1949年のことでした。今でこそ冬を代表する童謡になりましたが、その背景には意外な歴史があったのです。 |
大名行列では、アルバイトで歩いていた人も多かった江戸時代に盛んに行われていた大名行列。よく時代劇などで、町民たちが行列に向けてひれ伏すシーンが見られますが、そんな行列の中には大名の部下だけでなく、臨時で雇われた人々も一緒に歩いていたという話があります。 というのも、この大名行列は多額の経費がかかり、各藩の財政を大きく圧迫していました。しかし、地方の大名は幕府に呼ばれれば行かなければなりませんし、藩の見栄のためにも人数を減らすわけにはいきません。そこで、少しでも経費を削減するために、途中の道のりでアルバイトを雇い、一緒に歩かせていたこともありました。どれだけアルバイトが雇われていたかというと、行列の3分の1から2分の1を占めていたと言われています。 これらのアルバイトは、途中で宿泊する宿場で雇い、次の宿場まで一緒に歩かせます。そしてその宿場で解散した後に、翌日また新たなアルバイトを雇う、という方法を繰り返して、大名たちは江戸まで向かっていました。時代が進むと、藩から江戸までずっと同行してくれるアルバイトも現れ、より安く行列の体裁を維持できるようになりました。 それだけ、当時の大名にとっては行列の規模を大きく見せることが重要だったといえるでしょう。 |
わざと風邪をうつすと、傷害罪になる自分が風邪やインフルエンザであるとわかっていながら外出し、マスクをせずに咳やくしゃみをして、他の人にうつしてしまった。そんな人がいたら気を付けてください。というのも、わざと風邪などをうつした場合、傷害罪に問われる可能性があるからです。 刑法的に「傷害」とは、人の生理的機能に害を与えることと定義されています。この「害」とは、傷や打撲といった外傷だけでなく、ストレスや精神的苦痛を与えること、そして病気を罹患させることも含まれます。自分が感染源となる可能性を認識しながら、風邪やインフルエンザなどの病気をうつす行為は、相手に傷害を与えたとみなされ、傷害罪が適用されるというわけです。 ただし、犯罪が成立するためには、意図的に病気をうつしたという証明が必要になります。この場合、立証するのが困難であることと、相手も他の多くの人と接触しているため、別の人物から感染した可能性も否定できません。誰から感染したかを特定・証明することは非常に難しいものがあります。実際に傷害罪で逮捕されるケースはまれですが、なくはないです。人に迷惑をかけることは間違いないので、風邪がひどいときなどは自宅で安静にしておきましょう。 |
九州には、野生のクマはいないニュースで野生のクマが町で目撃されるといった報道を耳にすることがありますが、こうした出来事が起こるのは主に北海道や本州であり、九州で目撃されたという話はあまり聞かれません。これは、九州には野生のクマが生息していないからです。 2000年に宮崎県高千穂町でツキノワグマが目撃されたという報告はあったものの、それ以降はほとんど目撃情報がありません。捕獲の事例に至っては、1987年に大分県で捕らえられたものが最後です。そのため、2012年に環境省は九州産クマの絶滅宣言を出しています。 なぜ九州にクマがいないかというと、クマが生息するには広い山林地帯が必要です。ところが、九州の山は連なっておらず、地域ごとに分断されているため、他の地域と比べて山林の面積が少なく、クマにとって生息しづらい環境となっています。このことが主要な要因と考えられています。また、九州の山には人工の林が多いため、クマが冬眠前に食べるどんぐりがあまり実らず、これも生息に適さない一因とされています。 「本州にはクマが多く発見されているのだから、関門海峡を泳いでクマが来ることもあるのでは」と思うかもしれませんが、クマは長距離を泳ぐことができないため、その可能性は極めて低いとされています。 |
折り紙が、宇宙開発の技術に役立っている子どもの頃に遊んだ人も多いであろう折り紙。実はこの折り紙を科学分野に応用することで、さまざまな技術が誕生しています。1970年に考案された「ミウラ折り」もそのひとつです。 これは、どんな大きな紙であっても、対角線上の両端を押したり引いたりすることで、簡単に広がったり畳んだりできるというメカニズムが働いている折り方で、もともと宇宙空間で人工衛星の太陽光パネルを簡単に折り畳むために考案されました。その開発のヒントとなったものが折り紙でした。ミウラ折りは人工衛星以外にも、簡単に折り畳める地図や、ふたを開けると炭酸ガスが抜け、表面に三角形の凸凹の形が現れる缶チューハイの缶などにも利用されています。 他にも、折り紙の技術はさまざまなところに活用されています。たとえば、簡単につぶせるペットボトル、複雑な裁縫を必要とせず簡単に折り畳める「折りたたみドレス」、動脈硬化によって狭くなった血管を広げることができる人工血管など、その応用範囲は非常に広いのです。 このような話を聞くと、折り紙は単なる遊びにとどまらない、驚くべき可能性を秘めた技術だと実感させられます。 |
江戸時代、寺で宝くじが販売されていた一攫千金を夢見て購入する人も多い宝くじ。日本では江戸時代初期の1624年に初めて発売されたと言われています。その宝くじは、当時は「富くじ」という名前でしたが、なんとお寺で販売されていたのです。 そのお寺とは現在の大阪府箕面市にある瀧安寺(りゅうあんじ)で、お正月に参拝した人々が自分の名前を書いた木の札を箱に入れて、抽選日に寺の人がそこから3人の当選者を選ぶというものでした。ただし、当せん者に贈られたのは賞金ではなく、幸運のお守りでした。 後に、そのくじの評判を受けて、さまざまな場所でくじが販売されるようになり、次第にお守りなどではなく現在のような当せん者に賞金が贈られるスタイルへと変化していきました。ただ、あまりにも数が増えすぎたため、江戸時代初期に幕府は一部のお寺が社殿などの修復費用調達を目的として販売するもの以外は、くじの販売を認めないというお触れを出しました。 しかし、庶民のくじ熱も高まり、不正も横行したことから、1842年の天保の改革でくじの販売が禁止され、その後、1945年(昭和20年)に「宝くじ」が発売されるまで、くじは人々の前から姿を消していました。 |
北品川駅は、品川駅の南にある東海道新幹線の停車駅としてもおなじみの品川駅。そこから京浜急行の各駅停車に乗って南へ一駅進むと、北品川駅に到着します。不思議なことに、北品川駅は品川駅の南に位置しています。なぜ南にあるのに「北品川」というのでしょうか。それは品川駅の開業当時のある事情に関わりがありました。 品川駅は1872年、日本最初の鉄道駅のひとつとして開業しました。しかし、その開業は一筋縄ではいきませんでした。建設前、まだ鉄道が存在しなかったため、鉄道がどんなものかわからない品川の住民が駅の建設に猛反対し、結果として品川に駅を建設できませんでした。そして品川から少し北に離れた場所に駅を作り、それを品川駅として開業することとなりました。この経緯のため、実は品川駅は品川区ではなく、港区に位置しています。 その後の1904年、京浜急行は駅を新設します。このときはすでに反対運動はなく、住民も駅の建設を受け入れました。当初この駅は「品川駅」という駅名でしたが、現在の品川区の北端に位置していたため、後に「北品川駅」と改名されました。その結果、品川駅と北品川駅という位置と名前が逆転した不思議な関係が出来上がったのです。 |
264時間起き続けた記録があるみなさんは何日連続で徹夜できるでしょうか?体力や年齢で差があるとは思いますが、たいていの人は一晩が限界で、そう何日も徹夜できる人はほとんどいないでしょう。しかし、1960年代にあるアメリカの少年が、とんでもない徹夜記録を達成しています。 その少年はカリフォルニアに住むランディ・ガードナーという高校生で、彼はクリスマスの休暇を利用し、人間はどれだけ起き続けていられるのかという実験を、自分の体を使って行いました。眠らないように、数人の知り合いに頼み、常に話しかけてもらうなどの協力を得ながら、彼は起き続けました。 ただ、眠らないことにより体調はどんどんおかしくなっていきます。2日目になると目の焦点が合わなくなり、3日目には吐き気を催し、4日目には幻覚が現れ、そして7日目には会話も困難になりました。それでも彼は実験を辞めず、最終的に11日間、時間にして264時間起き続けるという記録を達成しました。 このような実験をして、体に悪影響はなかったのかと心配になりますが、当初は軽い記憶障害などが見られたものの、10日後には通常の生活に戻り、検査でも特に異常は確認されませんでした。 |
日本の島のほとんどが、無人島島国である日本には、いくつの島があるかご存知でしょうか。2023年に国土地理院が行った最新の調査によると、その数はなんと1万4125島にも上ります。この数は世界の国の中でもトップ10に入るほどです。そんな日本の島々ですが、このうち人が住んでいる、いわゆる有人島の数はどれぐらいかというと、本州や北海道などを含めて422島で、残りはすべて無人島です。つまり、日本の島の97%が無人島となのです。 ただ、有人島と無人島の区別は非常に難しく、漁師が一時的に暮らしていたり、観光施設や研究施設、神社仏閣があって、そこに職員などが勤務する形で滞在する場合もあります。そのため、無人島でありながら人の出入りがあるケースも少なくありません。国土地理院の調査では、5年ごとに実施される国勢調査で居住が確認された島や、また市町村の住民基本台帳に人口が登録されている島を有人島、それ以外を無人島としてカウントしています。 ちなみに無人島をもっとも多く有している都道府県は長崎県で、その数は1479と10%以上を占めています。次いで北海道、鹿児島、岩手、沖縄と続きます。 |
凧揚げの凧は、もともと戦争の合図として使われていた最近はあまり見られなくなった凧揚げですが、一昔前のお正月のシーズンには、子どもたちが揚げている風景がよく見られました。そんな凧揚げが生まれたのは、5~6世紀頃の中国です。ただし、その頃は遊びではなく、戦の合図として使われていました。 当時はまだ伝達手段が発達しておらず、遠くの味方に敵を攻め込む合図を送るのが非常に困難でした。そこで考案されたのが凧です。凧を使えば、遠く離れていても短時間で合図を送ることができるため、非常に重宝されていました。ただ、普通に凧を揚げるだけでは敵に気づかれてしまいます。そこで凧を鳥の形にして、まるで本物の鳥が飛んでいるようにカモフラージュしていたのです。 そんな凧ですが、次第に中国の貴族の間で遊び道具として使われるようになり、日本にも平安時代に伝わると、中国同様、貴族の間で遊びとして親しまれるようになりました。江戸時代には貴族だけでなく、一般庶民の間にも広まりました。ただ、凧揚げ中に集中しすぎて他の人とぶつかるなど、事故を起こす例も見られたことから、幕府は一度、凧揚げの禁止令を出したことがあります。それだけ庶民が熱中していたということでしょう。 |
| 掲載日時 | 2025/7/19 18:00 |
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| タグ | 聞くトリビア 大橋俊夫 |
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